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舞台「マクベス」

丸山隆平くんが主演の舞台『マクベス』を観てきました。
今まで観てきた舞台の中でも一位二位を争うくらい面白かった、です。

こんな、こんなにも良質な舞台だとは思わなかった…これは誰を貶している訳でも無いのだよ。ただ、丸ちゃんも言うても舞台は三本目だし、それを主演として扱うものだから…(ジャニーズだしグローブ座だし…)いや、決して誰を貶している訳でも、差別的な目で見ている訳でも無いのだよ…期待値がゼロであった訳では無い、し、むしろ私は今日のこの日を心から楽しみにしていたのだ。初めてシェイクスピアの『マクベス』を読んだ中学生の時のあの日から、この舞台を観られる今日の日を!
私は『マクベス』という作品を初めて読んだ日から「これを生の舞台で観なければ死んでも死に切れない」と思いずっと、舞台好きとして生きてきて。また違うある日、丸ちゃんを見つけて、少し目を気持ちを向けるようになって。その二つがある日、突然重なって。(こういうラブソングあるよね…)
それはもう、奇跡や運命に近いものだと思うのですよ。そして、その舞台がこんなにも素晴らしいのだもの…
私は、この舞台だけは「素晴らしかった」と手放しで喜びたい。


きっと私はとても運が良かったのだと思う。
マクベス』は本当に私にとって大切な作品だ、けれども、分からない事も腑に落ちない事も、たくさんあった。それがどうしても、どうしても取れなくて。「こんなにも、君を愛しているのに!」と何かの台詞のように叫びたくて仕方がない。そんな感情を抱いたまま、舞台を観る前に少し読んだ『マクベス』の戯曲の原文、劇場の座席でパンフレットを捲りながらたまたま目に入った一節、幕が上がり始まるプロローグ、それらが、どうしても取れない何かを取り除いてくれた。後の二つは確かに演出家が手を加えた部分であるのだが、きっとこの公演を観なければ私はずっと、このどうしても取れない何かを抱えたままだったと思う。だから、この公演を観られた私はとても運がいい。
また、今年はシェイクスピア没後400年なのだ。その意味もあったと思う。

私はシェイクスピアを特別に好きなわけではないし、何か知識があるわけでも無い。が、戯曲をいくつか読んで、シェイクスピアに対して(正しくはシェイクスピアが作る劇に対して)抱いた印象があった。この舞台はそれをも取り込まれていて、なんだかすごく気持ちが良かった。プロがたったひとり私だけのために、他の客を無視した味付けをしているのでは無いか?と思うような気持ちよさ。音楽もまた素晴らしく気持ちがいい。全てが、初めて『マクベス』を読んだ時の印象と近いのだと思う。それもまた、私は運がいい。


丸ちゃんのマクベスは、演技のおかげか、声質のせいか、(両方かな) ふとした瞬間にまるで子供のように見える。そこが、マクベスの優しさや心の弱さを映し出しているようで、とても良かった。また、人は本当の恐怖に慄くと、きっとあのように子供のような叫び声を上げ、誰か(マクベス夫人)に泣き縋るのだな、と。マクベスは優しすぎるあまりに全てを背負い切れなくなってしまったのだ。
この舞台ではマクベスは戦場に出たことによりPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患い、その内の幻覚症状から魔物(三人の魔女)を観たことになっている。マクベスの悲劇は魔物に出会った瞬間でも、ダンカンを殺害した時でもなく、戦場に行った事から始まっている。
戦場で出会った敵軍を殺し、戦争は終わった。しかしその場に駆けつけた敵軍の兄弟はマクベスを見るや剣を持ち襲いかかってくる。「戦いは終わった!」と叫ぼうとも兄弟は聞ける状態では無い。やむなく、その兄弟までをも殺してしまう。そんなプロローグが加えられている。
そこから「こんな、いいとも悪いとも言える日は初めてだ」と繋がる。

この舞台はのマクベス夫人は、あんな悪女ではなく、とても愛情深い(パンフレットから言葉を借りました)女性であったのもとても良かった。マクベスともお互い愛し合っていたからこそ、唯一罪を共有できる人物として存在していたマクベス夫人が自ら命を絶った瞬間にマクベスが抱いた絶望は計り知れない。夫人をそうさせたのもマクベス自身であるのだから、なおさら。

哀れなマクベスを救う事は出来なかったのだろうか?

王になろうとも、不安の種がある限りその手を汚し続ける哀れなマクベスを。もし、マクベスの心が強ければ、優しくなければ、ダンカンを殺そうとも、いくらその手を血で汚そうとも、王としてそこに存在する事は出来たのだろうか?



ここまで、思いを巡らせることの出来る作品に出会えて良かったと思う。また、偶然の重なりにも、それはやはり奇跡に近い。
ジャニーズのファンだけではなく、たくさんの人に観てもらいたい。
手放しで喜びたい、この舞台は素晴らしい。